手先の不器用な少年が、なぜ電気の技術者を目指すことになったのか(その2)

手先の不器用な少年が、なぜ電気の技術者を目指すことになったのか(その2)

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会社員時代前編

電子系の仕事に力を入れるか、それとも強電系の仕事でいくかに迷っていた時代。
電気の技術者でもない普通の会社員が、なにかに目覚めて電験3種の取得に向かっていった、自分の人生の中でも一番うれしかった時代。

(20代会社員時代)故郷に帰り、とりあえず就職

専門学校を中退して、このままじゃ親に合わせる顔がない。故郷に帰って、就職しなくてはいけない。長男だし、親をほうっておくわけにも行かず、実家に帰った。親も中退して帰ってきて大丈夫か?就職できるのか?でも子供が帰ってきたことは半分はうれしそうに感じた。

近くの某音響メーカー下請けのカーステレオを作っていた工場にとりあえず就職。時代はバブルちょっと前だったので、死ぬほど仕事があり、夜中の11時過ぎぐらいまで、ほぼ毎日というくらい仕事をしていた。若かったし、お金も欲しかったから実家では、ほぼ下宿人状態の生活を2年くらい送った。

このときは、完全に弱電の製品を扱っていたので、12Vより上の電圧なんぞ扱うことはほぼなかった。でもなんとなく強電資格でもある電験3種は心の隅で未練はあった。今だったらブラックな仕事といわれるかもしれないが、世の中これが普通だったような気がする。

電子工作を子供の頃からやっていたので、仕事自体の労働時間は長かったが、半田ごてや測定器を勉強しながらそれなりに楽しかった。

何を思ったか、この資格の本当の難しさも知らず当時は6科目受験を2日間、東京に受けに行ったのだ。なんの用意もなく受験したのだから当然不合格。

これが1回目22歳ごろの電験3種受験であった。

(20代後半会社員時代)電子系の技術者になろうともがいていた時代

この当時、世の中これからはパソコンの時代だということで、カーステレオの時代ではないだろうし、パソコンをもっともっと勉強したくて、某重電メーカーにもかかわらず、新規工場が地元でパソコンの周辺機器を製造するという会社で募集があり、なんとか面接も通り転職することが出来た。

パソコンの周辺機器なので、その当時は最新技術。製品や試験機、測定器がものすごく最先端のものばかりでとってもうれしくなった。
設計・開発の人たちも大卒、高専卒の集まりだったので、そのときは相当ハードウェアやソフトウェアの技術も吸収できて、本当に寝食を忘れるほど没頭していた。今思えば刺激的な時代だった。

やはり、扱う電気が直流の低い電圧ばかりで、正直、電験3種とは全く関係のない世界で10年は過ごしてきた。でも、このときも電験3種は頭に残っていた。

なぜ、電験3種にこんなにこだわっていたのか。

製造メーカーの技術系は、大卒、高専卒の人間ばかりで、専門学校中退レベルではまず出世はない。そして、本当に技術者として認められるようになるには、残された道は資格しか無いと思った。
ところが、扱っている製品が弱電機器のため、直接電験3種とはかけ離れた仕事をした。弱電と強電か、このジレンマを持ったまま仕事をしていた。

(30代前半時代)なかなか家に早く帰れなかった独身時代

30代に入り、そのジレンマのまま過ごしていたが、自分に転機が訪れたのである。

パソコンの周辺機器は、流行廃りが激しく本場アメリカのメーカに太刀打ちできず、名だたる日本のメーカーも撤退を余儀なくされていた。
自分のいた会社もこの流れに飲み込まれ、結局撤退し修理部門だけが残され、業態転換を図っていった。そこはやはり一部上場企業だったので、他の製品で柱を建て直していった。今までと違う製品だったので、自分は周辺機器関係での仕事はほとんどもう用がなくなっていた。
まだまだこのときも家に早く帰れなくて、なんとなく目標がぼやけて疲弊感が漂いモチベーションも下がっていた。
会社の上司から、工場の施設管理をやれる人間がいない、関係する資格を取ってやってみてくれないかの話が出たのである。
一気に、電験3種が大復活することになった。

今まで、弱電で生産技術・製造技術をメインで仕事してきた人間に転機が訪れた。いつも頭の隅にあった電験3種。

しかしである。

10年以上前に受験して以来、全く勉強していなかった人間に取れるのか。

電気系の人間ならまず知っている電験3種を取得して、もう一度本当に技術者として認められたい気持ちがこのときMAXになっていた。

(30代前半)施設系の技術者に引き込まれていった時代

まさか、こんなめぐり合わせで電験3種に出会うとは。
しかし、6科目受験で範囲も広く、昔購入した参考書をまた引っ張り出し勉強を闇雲にはじめた。会社も忙しく、毎日遅くの帰宅ではあったが、夜寝る前にベッドで勉強、お酒を飲んだ勢いで勉強、たまの休みにもスケジュールも立てずとにかくがむしゃらに勉強していたのだ。

自分ひとりじゃ会社も心配だから、設計部門の部長(某国立大卒)と一緒に受験することになった。やはり理系の国立大卒の部長に教わりながらも、やはり勉強の仕方が違うと感じていた。ただしこれは運もよかったのだが、その部長は自分が信頼していて好きな部長だったので、嫌々勉強したのではなかった。
たぶん学生時代より勉強したつもりでいた。

(30代前半)2回目の電験3種との出会い

自分にとっては、2回目の電験3種の受験であるが、その部長は初めての受験。部長にしてみれば、本当なら実務経験あれば電験1種ぐらいとれるが、弱電出身なので実務経験なし。

さて2人の合格結果ですが、あえなく2人とも撃沈してしまったのである。自分はともかく、理系で国立大卒の部長が落ちてしまうとは。

会社でもちょっと部長の肩身が狭くなったような気がした。

(30代前半)3回目にしてやっと電験3種合格取得

学生時代より勉強したのに、何がいけないんだ。自問自答していた。

通信講座でも受けるか迷っていたが、参考書や過去問の本が汚くなるまでなんども読みなおし、計算問題をノートに自分で解答できるまで

本気モードになっていた。

相変わらず、仕事も忙しかったが帰宅してからも、お酒の勢いとひたすら計算問題を納得するまで解いていた。いかにも大酒飲みに聞こえるが、元来お酒は強い方ではない。同僚たちと長年の付き合いで肝機能がマヒしていたのかもしれない。

なぜか、スポーツとは縁遠い仕事をしていたがスキーが大好きで、当時は映画「私をスキーに連れてって」が流行っていた時代。スキーの上手な同僚と毎週のごとくゲレンデにいた。夏より冬のほうが顔が真っ黒の状態だった。
おいおい電験3種のほうは大丈夫かって自分でも思っていたが、不思議なことにスキーを一生懸命やっていたことと自然に多く触れたり、開放感やストレス発散につながって、電験3種の勉強は冴えてはかどっていたような気がする。

そして翌年に3回目の受験。(このときか、6科目受験から4科目受験の科目合格留保制度が発足した年になっていた)

見事合格を手にすることが出来た!(科目合格留保を待たずに4科目全て合格したのだ)

(部長はこの年受験せず。その後も受験していない。)

このときの気持ちは、自分が宙に浮いたような気分になったのを今でも思い出す。
やっと苦労が実った喜びだった。

独身時代におさらばして、所帯持ちになる

それから1年も経たずに、会社の専任で電気主任技術者として働くことになり、幸いにもスキーで知り合えた現在の妻と結婚して所帯を持つこととなった。

いかにも順風満帆な書き方をしましたが、このあとも転機と波乱万丈があるのです。人生っていろいろありますね。

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